第76話   殿様の赤鯛釣と荘内竿 T   平成16年01月22日  

江戸時代「垂釣筌」では最岩で紅鯛(真鯛)を釣ったの人として坂部怒吉、生田百喜の二人を書いている。

「坂部怒吉は五戴(ゴサイ)において二尺六寸を取り、生田百喜は下途(オリト)にて二尺三寸を取る・・・・この紅鯛は萬魚のともがらにあらざるものである・・・」とし「彼は泳げば必ず喰い、喰わんとすれば針やテグスの細さ太いは選ばず、少しもかかわらずあたかも竿頭を奪うが如くである。あたかもその猛烈さは双龍が玉を弄(もてあそ)び、餓虎が肉を喰らうそれと同じである」と。

真鯛の二尺からの釣では生半可な釣ではない。単に魚が大きいだけでなく引きが非常に強烈である。酒井忠良氏にお供した甥の忠一氏が思い出を語るに「二尺六寸二分の大赤鯛の引きは強烈で、殿様が海中にズルズルと引き込まれるので必死に腰にしがみついた。」と語っているが、昔から本当に海に引きづり込まれたと云う話は結構ある。

だから、庄内の釣では磯場の足元をしっかりと確保出来る事が大事教えている。魚の引きが強烈で軽く竿の半分以上が海中に引き込まれるので、足場を確保し重心を下にしての延べ竿の立て方の技術をしっかりと身に付けて置かなければならなかった。昨今の丈夫なカーボンロッドと丈夫な糸にリールの調整で魚を操れる現代の釣とはまったく違うのである。約7mからの軟らかい延竿が海中に半分以上引きづり込まれる。それをしっかりと地に足を付けて踏ん張り延竿を立てなければならない。体力と技術を余程身に付けていなければ出来ない釣であったと容易に想像出来る。

赤鯛は魚の王者と云われ殿様の目指す釣となり、殿様の釣は三尺の赤鯛を目標にするようになった。明治初期酒井忠宝公が釣り上げた鷹羽(石鯛)の一尺九寸五分や真鯛二尺八寸五分などリールのない時代にどうやって釣り上げたのか想像を絶する釣であった。其れにも増して其の引きに耐えた庄内竿は・・・と考えると、如何に名竿とは云え、大した物であると云わざるを得ない。